天龍寺 の曹源池庭園は日本初の禅庭だ。
Un…finished Kyoto
臨済宗天龍寺派大本山「 天龍寺 」
序「疎石の背中」
夢想疎石。ずっと昔の人。遠い昔の人だからどんな人なのか分からない。いくら想像しても分からない。だけど想像してみたい。夢想疎石。彼の人は霧の山中を僅かの従者と僅かな背嚢を背負い進んで行く。かすかに疎石がこちらを振り向いた。眼差しは鋭い。が、優しい。しかし、そっけない。すべてを見透かされているような心持ちになる。向き直った疎石は背は霞んで行き、やがて見えなくなった。
天龍寺は嵐山の中心であった。現在は嵐山の一部の観があるが正確には天龍寺が対岸の嵐山を管理していた。敷地はかつて広大で今の10倍ほどあったと言う。当時、寺格は京都五山第一位を誇った。開山は『夢窓疎石』。天龍寺の「曹源池庭園」は有名だ。火事の多い寺でこれまで8度の大火に見舞われている。一般的な説明ならこれで十分。どの雑誌にもどのサイトにも同じ内容が載っている。
たいていの人はそれほど興味は抱かない。そもそも夢窓疎石が誰であるとかはあまり興味の向くことではない。それでいいと思う。寺院自体そもそも有難いものだ。しかし、ここでもう少し興味を持ってみてはどうだろう。「夢窓疎石って誰?」「なぜ天龍寺の庭は有名?」一歩でいいから踏み出してほしい。踏み出したその先に
新しい京都が見つかる。
一、疎石と国師
「夢窓疎石」あるいは「夢窓国師」と呼ばれる。鎌倉後期。臨済宗の高僧。天龍寺の開山であり、曹源池庭園の作庭者でもある。開山とは、お寺を新たに開くこと。またはお寺を開いた僧の事。昔は閑静な山を選んで、そこにお寺を築いたことから開山と言うようになった。
そして「国師」とは朝廷から高僧に贈られる諡号の一つ。他にも「大師」とか「禅師」がある。聞いたことあるでしょ。国師号は天皇の教師にあたるような、とても偉いお坊さんに贈られる尊称。ほかに国師号を贈られた高僧は栄西、沢庵、白隠、道元、隠元ら名僧が並ぶ。
夢想国師は鎌倉、南北朝、室町と敵と味方が毎日入れ替わるような、目まぐるしい情勢の中で北条家、足利家、そして後醍醐天皇からも尊崇されている。周りがどんなに荒れようと国師だけは雅量を示し、時々の為政者から景仰され続けた。国師は生涯と入滅後をふくめて7つの国師号を賜っている。破格の高僧と言っていい。その人が晩年、天龍寺を開創した。
二、禅庭はじめました。
天龍寺は嵐電嵐山駅の目の前にある。総門まで歩いて3分もかからない。境内に入ると雰囲気が静まっていく。本堂まで塔頭寺院が並ぶ。何も知らないで来ると、「お寺の中にお寺が…」。と思ってしまう。これは塔頭寺院と言って主に隠居用に境内に建てられた小型寺院。寺の入口は今はどこのお寺も「庫裏」だ。広い三角屋根によく見ると煙出しの櫓がくっ付いている。「庫裏」とは簡単に言うとお寺の台所兼寺務所のこと。ここから寺に入る。
天龍寺は後嵯峨上皇が営んだ亀山殿跡に造営された。宮殿跡地にあった訳だからそこには自然、大きな苑池がある。国師はこれを禅庭として大改修を施した。日本の作庭の歴史はかなり古くて平安時代後期には、すでに「作庭記」という書物があった。庭については不勉強で申し訳ないけど国師の生きた時代に関して言えば庭といえば寝殿造りの貴族庭園であったろうことは想像がつく。
夢窓国師の作庭は苔寺で知られる西芳寺庭園や等持院庭園などすでにあったが、はっきりとした禅庭の始まりは天龍寺の曹源池庭園とされる。
夢窓国師、最晩年のこの禅庭に白砂はなく池はのっぺりと低い。しかし、この池のひろさは鏡のようで気象条件によって様々に表情を変える。それを心象変化としてとるなら禅行に適した庭でありそうなことは間違いなさそうで、浄土思想の表現のような豪奢な貴族庭園に比べると、禅思想の表現に徹したこの庭園はまったくの新しい創作であると言っていい。
この曹源池庭園は禅庭の発端として部分的な装飾に過ぎなかった枯山水の様式化に繋がり、さらに後に分化、確立されていく日本式庭園へと紡がれていく。
三、疎石の履歴書
夢窓疎石について結構調べたので触れたい。夢窓疎石の来歴は自らの修養に明け暮れた前半生と、政治家を指導し社会教化に尽力した後半生にとはっきり分かれている。以下は伝承によるが修行時代の疎石の人となりがよく分かる。
幼少より温和で資質に優れ、仏典のほか孔孟老荘のみならず世間の伎芸に至るまで広く学んだと言う。禅を志してからは、幾人かのよい師にめぐまれ各地の寺で研鑽を積んだ。人柄もよく聡明な疎石を師も重用していたらしい。説法は分かりやすく、おまけに音声もよく音楽的才能も秀でていた。疎石の説法は人々の耳を楽しませた。という。
現代でも説法が巧みで人気のある僧侶といえば思い浮かぶ尼さんがいると思う。2021年11月に入寂された瀬戸内寂聴氏などはその代表ではないか。寂聴氏も嵯峨嵐山に「曼陀羅山 寂庵」を開き、この地に深く関係している。
ひとえに説法が巧みというのはたんに経典に精通しているだけでは成立しない。そこには深く包み込まれるような人間愛がなければ教え聡すことなど成し得ない。修行時代の夢想疎石その人も多くの人に慕われ教化する高僧の素質を持っていたのだろう。
国師も人間であるから挫折も葛藤もあった。だが国師の場合、通常のそれとは異なる。挫折とか葛藤の中に人間臭さや泥臭さが極端に少ない。妬みや執着といった人としてのえぐ味がない。疎石が天台、真言から禅に転じた時も、自らの修業の非を悟った時も、師と決別した時も国師の決定は胸が空くような爽快さがある。この庭はそういう国師の性格を投射しているのではないか。そんな風に夢想するのも悪くはない気がする。
四、疎石の自覚悟
夢窓疎石は悟達を得るため当時、師事していた仏国国師の許を去る覚悟をする。これには経緯があるが師の許を離れる際に「もし私が悟れませんでしたら、二度とお目にかかりますまい」と言って去った。聡明怜悧をして実績を得た国師にしてはやや強引な物言いだった。
禅宗は「教外別伝不立文字」と言うことを唱える。経典や言葉以外に心から心に直に伝えられるもの。真の悟達を得るには文字に囚われすぎてはいけない。と禅宗はいう。
国師の行動にはこういった教義の結実があったのでないか。この決意の間際、師との問答で文字や言葉に拘泥するところがあり、それも寺を出る契機になったようだが、これまで実務に追われる所のあった国師にあっては単にひとりの時間が必要だったのかも知れない。
その後、国師は悟りを得て、師に再参の志を遂げる。師の許を辞して3年。国師31歳の10月であった。この時の問答で国師は印可を与えられた。(「印可」とは悟りを得た事を認める公式の証明書のこと)