祇王寺
常寂光寺
三千院
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天龍寺 ~疎石と天龍寺の庭~

五、一流尊者

   

天龍寺
庭園にはほんとにたくさん種類の花が咲いている。

師の仏国国師は鎌倉幕府から尊重され執権 北条貞時夫妻が深く帰依きえし指導を受けていた。この時代、為政者が帰依するとは現代風の宗教心と少し違う。たんに仏の教えを乞うという以外に国家運営の勉強も兼ねていた。 つまり仏国国師は国家の最高顧問。その人に認められ、しかも「後事は疎石に」とまで言われていたようだから実質、幕府の次期最高顧問の座は疎石のためにあった。 

   

天龍寺
松も立派。松の手入れは難しいと聞いたことがあるけど、きちんと手入れされている。

しかし、疎石は忽然として山に入る。印可を許され嗣法しほうを受けてなお自らの悟りを固めるため山谷での隠棲修行を決行する。豊かな天稟をもち血筋も確かで、誰からも慕われた夢窓疎石のもとには続々と人が集まったという。郷国で修行していた時などは四方から禅僧が寄り集まって修行が妨げられるのでさらに奥山に引っ込まねばならず、結局どこまでも追いかけて来て国師の住むところ集落をつくる有り様であった。

     

どこだったかなー。写経スペースあったよなー。

この時代の修行僧の気迫もすごい。が、疎石ただ一人が隠棲修行に行くだけでどれほど多くの僧が教えを乞う為に草鞋の緒を固く結び、腰を上げたのか。「私も夢想国師のもとに参じ、教えを乞おうではないか」出立の修行僧はそういう希望で胸をふくらませていただろう。だが、それも国師にとっては修行の妨げに過ぎない。一介の修行僧に戻った国師に必要だったのは独座澄心どくざちょうしんの日々だった。

   

六、戦のあとに残るのは

   

天龍寺
手すりでこのデザイン!ただの手摺りだよ。

鎌倉幕府の再三の招請も避け、ひたすらに隠棲修行に明け暮れた国師であったが、国師を最後に口説き落としたのは後醍醐天皇だった。国師は齢50にしてついに世に出ることになる。国師は一時、官寺である南禅寺に住することとなる。その直後あたりから歴史は目まぐるしく変転する。各地で兵乱が起こり後醍醐帝は隠岐へ配流。鎌倉幕府は倒れ北条家は滅亡。ふたたび後醍醐帝が復権を果たし、建武の新政が始まる。

その時に後醍醐帝が第一に請じたのは国師であったことからも信頼のあつさがわかる。だが新政は早々に破綻してしまった。そして、味方であった足利尊氏は北朝の光明院を立てて離反。後醍醐帝は吉野に南朝を開いてから、崩御してしまった。

   

天龍寺
立派な回廊があるってのも、格の高いお寺として威厳がある。

時代は南北朝対立へ。そういう構図の上に京都に室町幕府が開かれた。足利尊氏は南側(敵方)であるはずの国師を請じて弟子の礼を尽くし教えを乞うたという。国師はこの時代の諸勢力からすこぶる尊重されていた。国師は先師との関係もあり北条幕府との関係も深い。その縁もあり後醍醐帝からも信任されていたが、同時に足利尊氏と弟の直義からも深く帰依されている。

互いを相食む勢力から平等に尊崇されるなどあり得ないことだ。国師は誰彼を上にも下にも扱うことになく平等に相対したのだろう。中世のまったく不確かな時代に国師の人間的内容はいかに貴重だったのか。曹源池庭園はこの頃に造られた。「後醍醐天皇の菩提を弔うために巨刹を建立したらどうか」この進言は順調に進む。さらに巨刹造営に費用に充てるため宋への貿易船も一艇たてられた。これが史上有名な天龍寺船だ。

    

七、 曹源池庭園

   

滲んでいる。開放気味で撮ったせい。

庭園は亀山殿跡の苑池を大幅に改修した。改修の折、池底から「曹源一滴」と彫られた石が出てきた。この禅語をものすごく平たく説明すると一滴の水がやがて大海を成すように禅の教えが広まってゆくという事である。億劫になってきたので触れないがここには亀山殿の後、天龍寺が建つ前に皇族が寄進した禅に縁のあった寺があった。その跡地の池から禅の教えである曹源一滴と彫られた石が出てきたので 「曹源池庭園 」。由来はこういう筋書きになる。

   

天龍寺
名庭園ほどありきたりに見えるのか…。

さて、夢窓国師の人となりも分かってきたような気がする。それも気のせいかも知れないが夢窓国師探しには少し飽きた。手っ取り早くこの800年近く残ってきた曹源池庭園を見にやってきた。池に対面するように配置された長椅子に座った。静か。ではない。私も含め観光客が多い。はっきり言うと騒がしい。国師がこの庭を造っていた時も河原者や小僧が引っ切り無しに立ち回っていたのかも知れない。

   

年季の入った長椅子。たくさんの観光客が使ったのだろう。

ふと人が途切れ、騒がしさが消えた。その時、「疎石も庭が完成した時はこういう風に一人でこの庭を見たのかな」。そう思えた。心の中で一滴の水がぽちょんと音を立てて落ちる。一滴は静かな波紋を描く。今、目の前の池も一滴の水から成っている。一滴の水はやがて沢になって沢は川になって大河となる。そして、大海を成す。

  

「ああ。そういう事か」

   

簡単なことだ。一滴の水も海も変わりはない。葉の上のひと雫の雨粒も海の水も同じで一緒だ。人間は極大と極小の正反対を同一であると感じた時、ある種の「悟り」のようなものを感知し得るのではないか。それは禅で言うところの「くう」のようなものではないか。

天龍寺の成り立ちを知りたいから疎石の人物像に迫りたい。でもよく分からないから諦めた。そうなってようやく分かった気がした。今度の「気がした」は今までよりずっとずっとハッキリとした感触があった。また一滴。ぽちょんと落ちて波紋を描く。今度はさっきよりも明るくて、よりはっきりしたイメージで。

   

冬だしね。泳がなくてもいいんだよ。

   

八、天龍寺の空

   

天龍寺 桜
天龍寺3月には桜が咲き始める。

天龍寺は庭園を中心に見るとすっきりする。曹源池庭園は亀山、嵐山を借景としている。奥にゆくほど山が高く遠くに見える。この構図は渡月橋と同じだ。池はのっぺりと低く、その割には池を囲む傾斜がきつい。斜面には樹木が植えられいる。歩道が敷かれているので観てまわれるが道に従っていくと案外、高い所まで登ることができる。見るものは池、斜面、亀山、嵐山。そして空の順に視線が移る。

池はちょうどすり鉢の底のような部分に相当し、鏡のような水面に空が写る。天龍寺の開創前にこれほど見事な設計の庭園が廃ておかれていた。先達の名もなき作庭家の存在が覗える。夢窓国師も内心は「あそこにはいい池がある」と勘案していたのかも知れない。

   

天龍寺
ピンともなにもって感じだけど、好きな一枚です。

国師は禅の精神を庭に織り込んだ。当時、寺院建築に関する決まり事はすでにあっただろう。だが、作庭に関しては夢窓国師の表現を容れる余裕は充分にあった。国師は後醍醐帝に請われて以後、京都を出ることはなかった。

国師は禅悦の日々を、あの独座澄心の日々にみた勝地の風景を曹源池庭園に再現したのではないか。この庭を前にすればまさに「山水に得失なし。得失は人の心にあり」。見る者の心の在りようで見られる側の価値も変わってしまう。目の前の山の木々も、川を流れる水も全ては在るがままなのに。

   

屋内の光の薄さに魅せられること。あるのよね。

疎石は曹源池を前に座禅を組んでいる。もはや禅悦の日々に戻ることはできない。時代は儚く移りゆく。北条は滅び、建武の新政は失敗した。足利家の世になっても人心は未だ休まることを知らない。

落慶法要も終えた。私も齢70を超え、もう80の方が近くなった。朝の澄み切った空気の中、禅定に入っている疎石の口もとに微かに笑みが漏れた。夢窓国師。77歳で入寂す。国師の建立したこの天龍寺では今も、毎夜9時に修行僧たちが曹源池庭園を前に座禅修行に励んでいる。

 

  


   

あとがきへどうぞ。観光情報多いです↓

   

Un…finished Kyoto

 

住所京都府京都市右京区嵯峨天龍寺芒ノ馬場町68
時間8時30分~17時 [受付終了16時50分](庭園受付・北門受付) 
料金庭園(曹源池・百花苑)
・高校生以上:500円
・小中学生 :300円
・未就学児 :無料
※特別公開の諸堂などの料金は公式HPを確認下さい。
アクセス・電車でのお越しの方
京福電鉄嵐山線「嵐山」駅下車前
JR嵯峨野線「嵯峨嵐山」駅下車徒歩13分
阪急電車「嵐山」駅下車徒歩15分

・バスでのお越しの方
市バス11、28、93番で「嵐山天龍寺前」下車前
京都バス61、72、83番で「京福嵐山駅前」下車前
 
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