祇王寺
常寂光寺
三千院
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渡月橋 ~歴史を覗く橋~

五、嵐の時代

   

渡月橋
紅葉は年によって色合いが異なる。

少し話を戻そう。最初に橋を架けたのは法輪寺。今の法輪寺の創建は西暦829年。約400年ほど経った1200年代の中頃、法輪寺の北畔に宏大な御所が造営される。この頃はまだ「法輪寺橋」と呼ばれている。この巨大な山荘御所は『亀山殿』あるいは『嵯峨殿』と呼ばれた。最初、造営を命じたのは後嵯峨天皇だった。この時「桜が見たい」と吉野から桜を持ってこさせたのはこの天皇の風雅によるものだった。

  

渡月橋
冬の渡月橋に鷺が舞う。

時代背景について少し説明したいけど、この時代情勢は複雑で分かりにくい。武士の台頭はすでに久しく鎌倉幕府が開府。幕府内では北条氏が実権を握り始める。朝廷では院政が慣例となり天皇位は空転の体を為す。反乱に災害。さらには蒙古襲来。同時に法界では法然、親鸞、道元、日蓮とまさに末法の世と言わんばかりに各宗派が法灯を掲げた。時代は混沌としている。

貴族の世界では後嵯峨上皇が皇位継承問題を拗らせ、またその皇子の亀山天皇もさらに厄介な状況に仕上げる。けれど、この亀山天皇の一言でもって「法輪寺橋」は「渡月橋」に変わる。亀山天皇は舟遊びの際、法輪寺橋上空の月を見てこう呟く。これが「渡月橋」に変わるきっかけになった。

   

「くまなき月の渡るに似る」

  

  

六、弄月

   

奥に小さく見えるのはボートの群れ。

「法輪寺橋」は「渡月橋」に変わった。というより「変わった」ことになっている。現代のように几帳面に橋名が登録されていた時代でもないだろうから呼び名の由来は曖昧だったと思う。当時の雰囲気を想像するにしても「ああ、帝がそう呼んだんですわー」と、こういう安穏さで十分だ。

おそらく亀山帝の発言が庶民に伝わり少しばかり学のある人間が「渡月橋」と語呂を合わせて呼び始めた。というのが私の想像だ。事実と根拠をやたらに求める現代にあってはこういう想像は案外に面白い。いずれにしても亀山帝のひと言は400年間も通用した「法輪寺橋」が潰える切っ掛けになってしまった。

それにしても1200年もの間、存続しているにも関わらず、この橋に「橋以上の価値」は発見できない。なんなら堰も完備され、流れも穏やかなこの地点なら渡し舟で十分だ。渡月橋の存続理由を探るにしても今のところ「ずっとある」以外の価値を見出せないでいる。もうひとつ強いて言うなら渡月橋は「有名」だ。だが、「有名」だけではこの橋を語れないだろう。有名以上の何かがある。この橋の本質はいったいどこにあるのか。いっそ橋に聞けたらいいのに…。

   

渡月橋
あ。車渡月橋って通れますよ。

     

七、管理者の変遷

   

水がないとこんなにぺったりとする。

歴史には少し飽きた。渡月橋について少し触れる。渡月橋はとびきり低い。昔はもっと低かった。にも関わらず上流の保津川の流れは激しい。橋は幾度となく流失している。橋が今の位置に落ち着いたのは、江戸時代の事。以前は、もっと上流にあったらしい。橋はたびたび位置を変えた。現在の位置は角倉了以の保頭川開削時に架け直された時のもの。天龍寺が隆盛を誇った時は寺の近くに橋を架けた。

渡月橋は名橋でありながら、その性質を時代の要求によって変えられている。現代の渡月橋は鉄骨鉄筋コンクリート桁橋。理由はもちろん大水の時に流されないように。でもコンクリート橋にはとても見えない。渡月橋を見た誰もが歴史を感じるにも関わらず、渡月橋は純然たる現代工法によって架けられている。

   

渡月橋
青と白の贅沢名勝。

この橋は管理者の変遷も多い。最初この橋は法輪寺によって架けられている。その後、天龍寺が隆盛になると位置は天龍寺寄りになり、管理は天龍寺と法輪寺でもって担っていた。寺の敷地内に店を出す場合、代わりに嵐山に桜などの樹木を2、3植樹するように定めていた。この仕組みは明治維新により破綻する。

天下の名勝の寂れた姿は意外な人物も落胆させた。当時、京都に旅行にきていた大久保利通は一瞬にして輝きを失った名勝の姿に茫然としたという。自らの革命がもたらした弊害であった。だが「法輪寺橋」に始まったこの橋は幾度となく罹災りさいし戦場にもなったことがあったが、その度に復活を遂げてきた。

   

渡月橋

時代は下る。昭和2年4月。嵐山地区は史跡及び名勝に指定される。景観の維持は都市計画法が担うこととなった。それは今も続いている。桂川沿いの桜と松の連続は今も変わりはない。その中に「229番」の管理用の小さな札が付けられた桜がある。そこから渡月橋を含めた連続する桜と松の構図は浮世絵に描かれた。もちろん今も変わらず人々の心を魅了している。やはり。渡月橋は美しい。

   

229番の桜の木

   

八、偉人たちの渡月橋

   

渡月橋
この西日がいいんですよ~。

そろそろ最後にしたい。この記事は起こすあたって渡月橋について結構調べさせられる羽目になった。秦氏に始まり、空海、道昌、法然、夢想疎石、足利尊氏、角倉了以、大久保利通、夏目漱石。皇族は後嵯峨天皇、亀山天皇、御醍醐天皇…。もっと調べた。調べても調べても渡月橋の姿にはたどり着けないでいた。

調べれば調べるほどに周辺の寺院や偉人の歴史ばかりが見えてくる。これらの偉人たちは確実に渡月橋は見るか、実際に渡っているはずで、そう考えるとこの橋のすごさが分かる。最初、橋になんて歴史などないと言いたかった。ただ全くないとも言い切れなかった。今なら分かるがそれはきっと透明なレンズのようなもので、私は「渡月橋というレンズ」を通し嵐山の歴史を見せられていたのだろう。

渡月橋はただそこにあればいい。それでいいのだ。本質や存続理由なんてどうでもよかった。だから皆さんに改めて伝えたい。是非、渡月橋に「行って、見て」きたらいいと思う。そこにはただの「橋」がある。ただし。その橋はあらゆる歴史とたくさん偉人を渡してきた。もし、あなたが渡月橋を渡ったなら、それはまぎれもなく渡月橋が渡した小さな小さな歴史のひとつだ。

   

渡月橋
いい桜!

       

  

おまけ「農家の娘」

   

渡月橋

桂川の河川敷には広い畑がある。住宅地の隙間にも田んぼが残っている。「やけに畑あるなー」と気にはなっていた。しかも、野菜は年中豊富で滋味が強く甘い。しかも、安く手に入るので農家の娘である妻はこの地域をたいへんお気に召している。この桂川流域周辺が灌漑されたのは法輪寺建立の時期と重なる。

法輪寺を建立したのは空海の高弟道昌だが、道昌は京都西北を拠点としていた秦氏一族でもあったらしい。法輪寺建立の際、架橋したのが橋のはじまりだった。それ以前に橋の原型はあったかも知れないが、寺伝によれば道昌は同時に灌漑工事も行い、桂、川岡、向日の荒れ野を田畑にかえしたというのだ。これが今尚、広く続く田畑の由来。

つまり間接的にでも渡月橋のおかげでもって私たち夫婦の胃袋は満たされている。「せやから野菜が安いんや。たぶん!」。妻に話したら「すごい!!」と感動していた。どうやらあの橋は1000年の時を超えて妻の胃袋まで掴んだらしい。そういう意味でもすごい存在だ。おわり。

   

渡月橋
ピーマン。

       


  

↓あとがき観光情報です↓

  

Un…finished Kyoto

  

 正式名称 「渡月橋」
 住所  京都市右京区嵯峨中ノ島町
 アクセス 
 京福電車(嵐電)「嵐山」駅下車、徒歩2分  
 阪急「嵐山」駅下車、徒歩8分
 JR嵯峨「嵐山」駅下車、徒歩11分
    
 営業時間 紅葉の時期以外、いつでも渡れます。