祇王寺
常寂光寺
三千院
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テレビでは「行楽シーズンを迎え、各地の観光地は多くの人出で賑わっています」とくれば決まって清水寺か嵐山が写される。「嵐山=京都」という意識は多くの日本人がそうであるように私にもしっかりと刷り込まれていた。実際、渡月橋を見たとき「京都に来たんだ」と思えた。

でも、実際に住んでみると嵐山は京都市の中心地、いわゆる洛中と言われるようなエリアからは、ずっと西端にある。まるで京都盆地からこぼれ落ちそうな位置にある。「京都です」と言い張るにはさすがに無理がある。驚くべきことに今でも嵐山・嵯峨野の地を「なんや田舎の別荘地ですやん」と小馬鹿にする人がいるくらいだ。(本当です。2020年当時)

だが馬鹿にする以外はなんの間違いもない。事実、嵐山は「田舎」であり「別荘地」であった。その「田舎の別荘」とは後嵯峨上皇が建てた壮大な「亀山殿」という離宮であった。あるいは大覚寺の前身となる嵯峨天皇の離宮だった。特に亀山殿は嵐山の開発にひと役かっている。

最初期、嵐山には法輪寺があった。後醍醐天皇の亀山殿の造営によって随伴する貴族の邸宅や寺院の建立などで、嵐山の開発は一気に加速した。歴史家ではないので確かなことは言えないけれど、亀山殿の完成は1255年とあるので、これが今日の嵐山を形作る大きな転換点となったことは概ね間違いない。

だが、はっきり言って嵐山に何もない。歴史的なものなら嵯峨野のほうがよほど充実している。嵐山地域は渡月橋と天龍寺くらいで、嵐山の大部分は食い物屋と土産物店だ。歴史的なものは意外と少ないが、多くの人が嵐山にやって来る。これには京都人も首を傾げる。だが、歴史を調べると亀山殿以前も以後も驚くほど多くの偉人たちが嵐山に関わっている。人の手が多く入っているにも関わらず嵐山の景観は昔とほとんど変わりない。

変わらず維持される嵐山。それは偉人たちはもちろん名もなきお役人から観光客に至るまで、この景観を愛し、後世に受け継いでいきたいと考えたのだろう。この地は古来、秦氏が開き、多くの天皇が行幸し、弘法大使空海や法然、天龍寺の夢窓疎石、時代は下り保津川を開削した角倉了以。また明治の世を開いた大久保利通。多くの偉人が歩き、慕い、戦い、築き上げた最愛の勝地 嵐山。嵐山を行き交う一人一人の、その一足は嵐山を後世に紡ぐ、大切な一歩だ。

   

渡月橋

  

   

天龍寺

  

   

法輪寺

渡月橋の南側には法輪寺がある。法輪寺の舞台からは嵐山、嵯峨野が一望でき、五山の送り火の時期には一般に開放される。

   

野々宮神社

 

   

大悲閣 千光寺