祇王寺
常寂光寺
三千院
FH0000051
DSC_02981
DSC_0378
DSC_0528
00010004_01
DSC_0598
DSC_0589
DSC_0723
DSC_0414
previous arrowprevious arrow
next arrownext arrow

祇王寺 ~女たちの祇王寺~

京都、奥嵯峨野「 祇王寺 」。知ってる人は意外と少ないのでは、竹林と楓やもみじに囲われた苔の美しいお寺。平家物語に興味のある人はすでに知っているかも知れないが、この寺も例に漏れず1000年ほどの由来があり、近代においてその命を繫いだ。さらっと1000年でも嫌味だが“それが京都”と言う場所だ。

Un…finished Kyoto

   

京・奥嵯峨野 「 祇王寺 」

 

 

一、千年前。

 

祇王寺

常寂光寺を観たあとに 祇王寺 の入り口までは来たことがあった。その時は紅葉シーズンも終わりに差し掛かっていた。にも関わらず祇王寺にはたくさんの観光客が詰めかけていたので、その時は拝観を諦めていた。

次の機会は12月初旬。どうせなら綺麗な写真も撮りたいが、紅葉はとうに過ぎている。「でも今日ならお客さん少ないんじゃない?」と妻が言う。「なるほど」と思い、祇王寺に行くことにした。

 

祇王寺

祇王寺は竹林と楓に囲まれたぽっかりとした空間に草庵が一棟あるだけで「こんなものか?」と思ってしまう。特段、書くこともあまりなさそうにに思えたが、その算段は早々に崩れた。京都という土地は少し調べればすぐ1000年前に辿り着く。わが身を当時の風習に置き換えねばたちどころに歴史に置いてゆかれてしまう。

京都には自分の知識や理解とは別のところに連綿と歴史が紡がれているのだ。祇王寺も例外ではなく、草庵一棟のみのこの庭園もほんの少し調べただけで簡単に1000年の昔、それこそ平家物語の時代にまで連れてゆかれる。京都 奥嵯峨野。歴史を知ることで

   

新しい京都が見つかる。

   

二、庵ひとつ

   

祇王寺

妻が「やっぱり人少ないね」と言う。すでに紅葉は終わり、おおかた落葉して苔の絨毯に敷き詰められている。落葉の隙間から見える苔がやけに青い。

祇王寺には茅葺の草庵が一庵と見やすい広さの庭がある。嵯峨野の深い森と竹林に抱かれるように、ちょこんとそこにおさまっている。天龍寺のような嵐山の広い空を抱えた曹源池庭園や東福寺の橋廊から見るモミジの群生のような迫力はない。

   

祇王寺

そして、平家物語で有名云々というにはこの庵は新しすぎる。実際、明治28年(1895)に移築されたものらしく寺の由緒と比べるとずいぶん不釣り合いであることが見てとれる。ふと、なぜ1000年の間、命脈を保ち今なお求心力を維持しているのか。違和感を感じた。

妻に「1週間早かったらすごい人やったやろな」と話して、2人で写真を撮った。妻はいつも笑顔だ。妻も私と出会うまで苦労をしてきた。(出会ってからも苦労させてしまっているが…)女性の辛苦というのはたびたび小説の題材にもなったりする。

   

祇王寺

    

三、高岡 智照(1896-1994)

  

祇王寺

祇王寺には最近まで庵主がいた。庵主の名は高岡 智照。39歳の時に奈良県久米寺にて得度し、「智照」を名乗る。本名を高岡 辰子。この人物が現代における最後の使用者であった。

智照尼は12歳の時、父親に騙され花柳界に売られる。その美貌からすぐさま人気を得る。15歳の時、情夫への義理立てに自分の小指の先を剃刀で切り落とし、切った指先を情夫に渡した。

   

祇王寺

このスキャンダルが発端となり、皮肉なことにさらに売れっ子になる。その後、2度の結婚を繰り返し、ついには39歳で得度し尼僧になる。当時、寂れていた祇王寺の庵主になったのはこの時だった。以来、祇王寺は傷ついた女性たちのより所となり話題となった。

智照尼の人生は瀬戸内寂聴の小説『女徳』のモデルともなっているが、私にとってはおよそ1000年前と現代を繋ぐ案内人でもある。

  

四、祇王御前(平安時代)

   

祇王寺

平安の昔、もう一人の女性がいた。名を「祇王」。祇王寺の由来となった人物で妹の祇女、母刀自とじとともに平家物語に登場している。

祇王は父の戦死後、母刀自に連れられ京に上り、妹の祇女とともに白拍子となる。その評判は時の権力者 平清盛の耳にまで登り、祇王は清盛の寵愛を一身に受けることとなる。祇王と由縁のある者は皆、栄えた。祇王に憧れた都の白拍子らは「あなめでた祇王御前の幸や。同じ遊女あそびめとならば誰も皆、あのようでこそありたけれ」と皆、自らの名に「祇」の一文字をつけた。

祇王の生きた中世という時代は人々の活動は朝廷という枠組みからは離れはじめた時期だった。職業は多様になり、後に蔑視の対象となるような職業もこの時代ではまだ後世ほどは阻害されずに社会基盤の一部として包摂されている。

   

祇王寺

中世の人々は現代の日本人の、つまりは江戸期に確立された日本人としての倫理観を持たない。まったく別物の日本と言っていい。女性の行き来は自由であったし、山川の往来は山賊、川賊が、交易は海賊が統制の大部分を担っていた。

日本の中世は暗い闇の時代でもなければ戦国時代が来るまで、ただ群雄の登場を待ち望む空疎な時代でもなかった。時代はにわかに胎動し、男も女も力強く生きた。人々はいっそう自由で世界は急速に広がっていた。

   

そういう息吹の上に平清盛が現れた。この時、財力も武力も地位も血統も実績もすべてこの一人の男に注がれていた。

源氏は当時、衰退し遠地で鳴りを潜めている。清盛は後白河法皇のご落胤らっけいと囁かれていた。清盛は日宋貿易を成功させ巨万の富を得る。公家には子孫を次々と嫁がせた。この世のあまねく権勢その上に平清盛が君臨していた。

その平清盛から3年の間、一人の白拍子が寵愛を得るなどは在り得ない仕合わせであった。しかし、その祇王は一夜のうちに屋敷を追い出されてしまう。

  

「祇王御前が追い出されたらしい」

   

市中からはこんな話が聞こえてくる。「ほとけっていう新しい白拍子を気に入って、祇王御前はすぐに屋敷を出されたらしい」。人々は噂し合った。

噂は事実で清盛は新たに仏御前を寵愛した。祇王は毎月の扶持も止められ一転不幸の人となった。しかも、仏御前が屋敷に入れたのは祇王の取り成しだったという。祇王は嘆き暮らした。