祇王寺
常寂光寺
三千院
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祇王寺 ~女たちの祇王寺~

五、竹の編戸

   

祇王寺

以下は伝承に頼るが祇王一家はその後、世を儚んで嵯峨の山奥に隠棲し、母子ともども尼僧になる。これが「祇王寺」の由来であった。母子が日夜、念仏をとなえ過ごしていた寺は法然上人の門弟良鎮が創建した住生院であったと伝えられている。

祇王たちの庵はこの寺の境内にあったという。良鎮に関しては今はふれない。その当時、浄土宗は一宗を確立して間もない時期だったはずだが浄土思想の信奉の勢いは凄まじく、住生院も念仏宗への支持とともに山上山下にわたって広い寺域を獲得したのだろう。

   

祇王たち親子は一向専修に念仏して暮らしていた。ある夜更、庵を訪ねるものがいた。開けずとも押し倒せることのできる竹の編戸をほとほとと打ち叩き、そこで待っていたのは剃髪し尼の姿になった仏御前であった。祇王は胸をすっと締められるような感覚を覚えた。

「このひとはかつて清盛様の屋敷の門をたたき、今は私の庵の戸をたたいている」「この女の若さゆえの無礼を私が清盛様をお諭し差し上げ、結果、わたしたち親子は都を去った」「この女は清盛公の寵愛を受け、もはや叶わぬ事などないはずなのになぜ私の目の前にいるのか」

しかし、世の儚さを知り、さめざめと許しを請う仏御前の言葉にしだいに祇王も心を開き、庵に入れた。それ以後、刀自・祇王・祇女・仏の4人はともに念仏にはげみ極楽往生の願いが遂げられたという。

    

祇王らの庵があった住生院は江戸時代末期頃まで続いていたらしいが明治維新の時期に廃絶している。明治維新によって、それまで続いた江戸時代の仕組みはことごとく破綻に追い込まれた。天龍寺などは寺領を10分の1まで削られ、嵐山の景観も荒れ果てていた。

嵯峨野も例外ではなく祇王たちの簡素な庵など維新の嵐の前にまるで無力であった。往生院はすでに廃れた。祇王たちの庵もその跡地が人知れず埋もれていくばかりであった。残るとすれば、ただ平家物語の中にのみ彼女らの悲話が残るばかりであった。

   

祇王寺

      

六、北垣男爵(明治時代)

   

明治28年。にわかに祇王寺再興の企てが持ち上がる。この計画には最後の文人画家といわれる富岡鉄斎などが名を連ねていた。これに当時の京府知事 北垣男爵が賛同し、祇王寺は復興することになった。

北垣は幕末の頃、但馬国養父市(今の兵庫県北部)に生まれる。もともと薩長とは関係が薄く、公家方に属していたようだ。実際、明治維新の頃は西園寺公望に仕えている。明治維新をくぐり抜けた後は順調に出世する。

北垣男爵は維新によって荒れていた京都の復興に力を尽くしていた。嵯峨嵐山を含む景勝地の再整備はもとより、同時に琵琶湖疎水など大規模な開発も進めていた。この疎水の開発が800年前の祇王の行動に結びつく。

   

祇王寺

その昔、祇王は清盛に願い水利に苦しむ故郷のために水を引いたという。白拍子一人のために多くの人夫を動員し、土地を開いて水を引かせた平清盛もすごいが北垣男爵は「祇王が水利を興せし事実は感ずるに余りありとて、深く其事を称賛し」さらに、「自己の別荘中の一棟を畳建具と共に寄付」したという。これが現代の草庵であった。晴れて祇王寺は再興された。

それは祇王の悲恋物語の再現であった。想像の中にのみ存在していた1000年の物語が視覚化され、いわば古典文学の骨格が地層中から突如として掘り起こされた。あとはその骨格に対して肉付けを施す作業があるばかりであった。この試みはその後、大正、昭和の女性たちに受け継がれていく。

   

祇王寺

     

  

六、紡がれる祇王寺

  

祇王寺

一旦、古典文学の世界が視覚化されると嵯峨野には祇王を始め、横笛、公内侍、小督局と古来の名所として枚挙に暇がない。と、その悲恋の女性像の色合いがどんどん濃くなってゆく。

時代は大正へと進む。この時代、すでに修学旅行があった。大正8年(1919)の奈良県女子高等師範学校の女学生は記録する。「往生院、祇王寺と小さな札が掲げてあつて中にはかなめ垣が赤い若葉を燃やしていた。萩の庭を踏んで縁側から案内を乞うと中から小さな老尼が出て来て障子をすつかり開放して「何卒どうぞ御入り」と言ふ。仏御前もかうして訪れたのではなからうかと、平家の昔を思って上へ上る」。

   

祇王寺

女学生が訪れたこの時期は第一次世界大戦が終結し、第二次大戦へと突き進む前時代の束の間のおおらかな時間が流れていた頃だった。

そして、1000年の昔。祇王達が嵯峨野に隠棲した頃、まだ平家は都で栄華を誇り、戦の影は薄い。都落ちしたとはいえ祇王たち親子に訪れた束の間の平穏の日々。

この二つの時代の重なりに連綿と繰り返しては紡がれていく時代の流れを感じずにはいられない。そして再び、寺は次第に人々の記憶から忘れ去られてゆく。

   

七、ふたりの微笑み

   

祇王寺

時は激動の昭和に移る。寺は智照尼が預かることとなった。廃れていた祇王寺は息を吹き返す。まるで枯れた苔が雨水によって青さを取り戻すように。

先に書いたとおりこの女性ひとは瀬戸内寂聴氏の小説『女徳』のモデルとなった人物だ。寂聴氏が出会った時はそれなりの老齢に達していたと思われる。気高い美貌に似合わぬ闊達な人柄は健在だっただろうか。想像はともかく、この人が現代に祇王寺を繫いだ人と言っていい。

   

祇王寺

智照尼は明治29年に生まれ、平成6年までの生涯(1896-1994)に2つの大戦に結婚、出産、離婚。それに自殺未遂があった。 壮絶すぎると言ってもいい智照尼の人生。その人生の中に生きながらに背負い込めるだけの女の不幸を背負って、この女性は生きてきた。

得度してからは後半生を祇王寺復興に懸けた智照尼。傷ついた人間にしか傷ついた人間の気持ちは分からない。集まる女性たちに「私もあなたみたいな事があったのよ。でももう起きてしまった事に、くよくよしたって仕様が無いじゃない」と優しく諭し、一緒に泣き、話を聞き、ただひたすら深い共感に、どれほどの人が安心あんじんしたのだろうか。

智照尼は御年98歳で入寂する。大変な時代を生き抜いた唯一人の女性。思えば楽な時代なんてそうそう無いことに気付かされる。祇王寺もあらゆる時代の中でひたすら残ってきた。踏まれても潰されても強く。静かに強く。まるで地面を覆う苔のように、ただひたむきに青く。

   

八で終り。「夫婦」

   

祇王寺

同寺境内には母の「刀自」と妹の「祇女」の合葬の宝筐院塔がある。そして、かたわらには平清盛の供養塔がある。智照尼の塔もあるが、仏御前の塔が私には見つけられなかった。

調べたつもりになっていても、必ずどこか穴があるのが歴史というものだ。そこにはまだまだ想像の余地があって、また気づけば1000年前に連れていかれるのだろうか。さて、現実に引き戻してもらう役目は妻にかってもらおう。

祇王寺の帰りに妻が「こんど紅葉きれいな時にまた来よう」と話す。要は“映え”のする写真狙いだろう。「混んでるんちゃうの」と反抗してみる。人混みは嫌いだ。

ここ京都では紅葉が一番綺麗な時期と人がひしめく時期は切っても切れない関係にある。だが「いいじゃない」のひと言で、簡単に押し切られた。まあ、男が尻に敷かれるくらいのほうが世の中、平和なのかもしれない。おわり。

   

祇王寺

   

  


  

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Un…finished Kyoto