五。一刀三礼
突然だが、念仏は歴史が古い。この時代の先駆者は空也であった空也は千観と同時代の人物であり、同時期に京の都にいた可能性が高い。千観自身も生涯、念仏を絶やさなかったという。千観についてあまり調べていない。寺の歴史に触れてもせいぜい数行で紹介は終わってしまっているし、かえってそれで良いと思う。ただ、彼の実景として「自ら一刀三十三礼をして本尊を彫った」とある。一刀。すなわち、ひと彫りするごとに三十三礼をした。
1000年越しでもその人柄がまるで目の前にいるように伝わってくる。千観内供はひと彫りひと彫りに何を願ったのか。いや、願ったのはむしろ人々のほうか。所作も清く、念仏を絶やさず、黙々と彫り続ける若き廃寺の主。この姿に思わず手を合わせた人間は多かったはずだ。
六。絶体絶命
この寺は愛宕念仏寺と呼ばれることになった。愛宕念仏寺はこの後、長く続く。この間、目立った記録はない。幾多もの戦乱もくぐりつつも、無事に継承されていたらしい。大正11年になり堂宇の保存のためということで嵯峨野 愛宕山の麓、現在の場所に移築される。保存のためならなにも同じ場所でいいだろうに。と思ったが、案の定、京都はこの時期に初の都市計画事業として用途地域が設定され、区画整理事業など忙しく施行されている。
周りにも寺院が多かったが、移築は愛宕寺に決まってしまった。行政はこの寺をどうにかしたい。が、愛宕念仏寺は当時すでに重要文化財の指定を受けており、文化財は保護しなければならないから取り壊しはできない。
なれば「保存」の名目でもって寺をどこかに寄せさせてしまえ。となった。「同じ“愛宕“ですしええんちゃいますか」などと移築の計画は進んでしまったのだろう。要は嵯峨野の山奥に捨てられることになった。以後、愛宕念仏寺はあっさり荒廃し、戦後「京都一の荒れ寺」と呼ばれるまでになる。
七。ふたたび廃寺へ
大正11年の移築から、時代はすぐに昭和にくだる。日本は中国に侵攻。そして、第二次大戦に突入した。混乱の最中、愛宕念仏寺は無住職となり人々の関心も薄れていく。最後の住職は誰だったかは分からない。人がいなくなれば早いもので、虫が蔓延り、床下には獣が蠢いていたかも知れない。ほこりにまみれ、沢の通ったこの寺はすぐにカビで臭くなったろう。廃寺は時間の問題だった。
戦争が終わっても愛宕念仏寺は無住職のまま棄てられたままで誰もいなかった。念仏もとうの昔に途絶えた。さらにそこへ台風が襲った。瓦は吹き飛ばされ、雨漏りもひどい。仏像は傷み、廃れ、誰も拝まない。766年の建立から昭和25年(1950)のこの時点で1184年が経過している。
長い寺の歴史がついに幕引きを迎える。寺はそういうぎりぎりの状態でもって呼吸していた。命運は尽きたかに思われたが、終戦から10年が経った昭和30年。廃れっ切ったこの寺の住職を拝命したものがいる。
西村公朝(1915-2003)会って話を聴けたら。と思うご仁だが、すでに入寂されている。氏が愛宕念仏寺の息を繫いだ人物だった。戦時中は中国各地を転戦し、ボロボロになった仏像を何体も見てきている。もともと仏師、仏像修理技師を志し、召集直前も三十三間堂で千体千手観音の修復に携わっていた。復員後も三十三間堂の修復作業に復帰そして、37歳の時に得度。天台宗の僧侶となる。
氏は愛宕念仏寺の住職のかたわら、美術院国宝修理所所長に就任。さらに東京芸大名誉教授であり、多くの勲章など、受章履歴も華々しい。日本全国を駆けまわっていたため、愛宕念仏寺の本格的な復興事業は昭和55年に入ってからになる。公朝氏が愛宕念仏寺の住職を拝命してから寺は25年の間、寺は再興の時をじっと待った。
八。再興事業
昭和55年(1980)から10年がかりの復興事業が始まる。山門の修復に始まり、境内の整備に堂宇の修繕、仏像の修理…さらに寺門興隆を祈願しての羅漢像の制作が加わった。1980年代のいくら金回りのいい時代だからと言っても、いち住職としてこれだけの事業を切り盛りするのだから公朝氏の手腕と人柄が偲ばれる。
さて、山門の修復工事の際にちょっとした後難があった。山門は寺の境界を示し、参拝者を迎え寺を守護する役目がある。そして、山門には寺の守護神である仁王さんが邪気を払い、悪鬼の類を退散させんと赤くカッと見開いた眼でもって通るものに睨みをきかせている。はずであった。が、愛宕念仏寺の仁王さんは戦中戦後の混乱の中、映画の小道具を扱う業者に売り払われてしまっていた。
再興事業の当時、仁王像は国立京都博物館に収蔵されていた。所在を突き止められたのも奇跡的だが、もし実際に映画のセットとして使用されていたのなら、この仁王さんは映画出演経験があることになる。鎌倉時代生まれの仁王さんは映画でも睨みをきかせていたのだろう。仁王像は返却される。めでたく山門(仁王門)には阿形・吽形の二王が戻ってきた。
九。ゴリリ。カーン
公朝氏は数々の名誉職に就くと同時に仏師でもある。寺門の興隆を祈念して境内を羅漢像で満たすというアイデアは仏師である氏のごく自然な発想であったろうし、その製作者に一般の人々を選んだのは住職でもある氏の人柄からでた純粋な発願であっただろう。
この優しい試みは多くの賛同者を集めた。「昭和の羅漢彫り」が始まり、参加者の多くは土日を利用して寺に集まっては思い思いの羅漢さんを彫っていた。寺には鑿音がこだまし、愛宕念仏寺は廃寺のころなど忘れてしまったかのように活気付いた。人々は石を穿ち、斫り、削り、それぞれの羅漢さんに仕上げていく。老若男女問わず誰彼となく参加し、公朝氏のはそのあいだを縫うように歩いては造像のコツを笑顔で教えていく。人と交わり、心を交わす。
公朝氏は仏教者であり、また宗教者の鑑ともいえるような人であったろうか。今となっては想像でしか氏の面影を語ることができないが、そんな想像も悪くないのではないか。昭和の羅漢彫りはここに始まった。第一回は500名。第二回は700名の参加者が集い、それぞれの羅漢像をそれぞれの思いのもとで、ひと彫りずつ造っていく。千の人間に千の羅漢像。千の悩み、喜び、悲しみ、苦しみ、楽しみ、望み…千の意はひと彫りずつ、羅漢像に写されてゆく。
千年前も現代と同じように礼を尽くして仏像を彫った千観内供がいた。千観が彫ったのは木像であった。昭和の羅漢彫りでは一般の人々が鑿を持ち、石像と対自している。境内に響く石を斫る乾いた鑿音に千観の木像を削る鑿音が重なる。両者の間の千年の隔たりはもはやなかった。
今、この寺には千の表情を持つ羅漢さんがところ狭しと並んでいる。正確には1200体の羅漢さんがいる。本を読むもの。酒を酌み交わすもの。破顔するもの。仲睦まじいもの。その中にはきっとあなたの願いに似た羅漢さんもいるだろう。
おまけ。妻と散歩
妻とよく嵐山を散策する。最初は妻のリハビリのために嵐山を探検することにしたのが始まりだった。そこで嵐山には嵯峨野があり、思いのほか奥行きがあることを知った。妻の体調を気にかけながら愛宕街道を北へ北へと進み最後にあるのが、この「愛宕念仏寺」だった。入ってみてあまりの石像の多さに驚いた。紅葉の時期だったので、なおさら綺麗だった。
妻と写真を撮り、ご本尊に病気平癒を祈願し、また石像郡をまじまじと観る。このころには妻の足も大分よくなり。生活にもほとんど支障がないまでになっていた。妻はよく笑う。実際、病床の妻も笑顔が多かった。だが機嫌が悪くなるときがある。そういう時、妻はこんな顔になる。というのは妻に内緒にしてほしい。…おわり。
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Un…finished Kyoto