祇王寺
常寂光寺
三千院
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愛宕念仏寺 ~千観の愛宕寺~

かつて千観内供が支え、約1000年後に西村公朝氏が復活させた 愛宕念仏寺 。かつて「京都一の荒れ寺」とまで言われた愛宕念仏寺。廃寺同然のこの寺を一人の僧侶が蘇らせた。圧巻の1200羅漢は嵯峨野の最奥まで来たものにだけ微笑む。

Un…finished Kyoto

 

千二百羅漢の寺「 愛宕念仏寺 」

日暮れの愛宕念仏寺。

   

   

一。 愛宕念仏寺

  

紅葉しかけの緑と黄の掛け合い。

   

京都のひとは、愛宕のことを、「おたぎ」 という。

司馬遼太郎 街道をゆく 26

読めば奥ゆかしい古都のにおいがしてくる。嵯峨野は清凉寺からはじまり、 愛宕念仏寺 で終わる。と勝手にそう思っている。清凉寺から愛宕街道に入って、最後にたどり着くのが「愛宕おたぎ念仏寺」だ。11月の下旬。嵯峨野をぶらぶらしていた。とくに当てはなかった。「行ってみようよ」と言ったのは妻だった。

「かわいい仏像がたくさんあるみたい」

と妻がスマホをにらみながら言う。そういう妻を可愛らしく思ったが、思いっきり空返事してやった。が、行き先は決まった。道は愛宕街道が教えてくれる。街道には店舗がならび、竹細工を扱う店は外国人客でにぎわっていた。

   

この時はNikonのF5で撮ったよね。開放しまくり。

ふと、誰もいない小さな出店を見つけた。4畳ほどもあるだろうか棚には“繭玉“で作られた手芸品がきれいに陳列されいる。でも店員がいない。レジもない。あきらかに常駐している気配がない嵐山の最奥とはいえ、街道は土日ともなれば人通りもそれなりに多い。

「盗られたりしないものかな?」

本店はすぐ横の急な階段の先にあった。「あだしのまゆ村」有名な店なので、調べればすぐ分かると思う。嵐山にも兄弟店があって、同じように繭玉の製品を扱っている。その時は女将らしき人と違う話で盛り上がってしまって、下の出店については聞けずじまいに終わってしまった。

まあ、たぶん大丈夫なのだろう。あれほどあからさまに広げられては「盗るも盗らないもあなたの心次第ですよ」と言われているようで、盗る気も失せるだろう。 

   

二。ふたつの念仏寺

   

写真?下手でいいの!

行先は「おたぎ念仏寺」だが途中、もう一軒「あだしの念仏寺」がある。「化野」と書いて「あだしの」と読む。これもややこしい。同じ念仏寺なので間違いそうになった。ここはかつて風葬の地だっと言う。それを空海が五智山如来寺を建立し、野ざらしの遺骸を埋葬した。のちに法然が念仏道場を開いたという。空海が起こし法然が続いた。嵯峨野という土地はこの2人の聖僧の存在が常に付いてまわる。

空海は学問僧として遣唐使船に乗船した。学問僧は長期留学が原則である。が、空海はわずか2年で帰国する。しかも中国密教の全体系を授かって。尋常ならざることだった。渡唐時、無名の学問僧が密教のすべての秘宝を授かり、さらには多くの経典、曼荼羅、法具を持ち帰った。空海はその後、京都高雄山寺に入住し、真言密教の法灯を掲げた。

   

これもNikonのF5。

遣唐使船団にはもう一人、上船していた。最澄である。最澄は還学生として入唐する。いわば国家公認の僧なので、早急に唐から仏教を日本に持ち帰らなければならない。彼の場合は天台宗を日本に持ち帰った。最澄による天台宗は当初、不完全であったらしい。最澄はこの補填に生涯のほとんどを費やすことになる。その他の論争にも対処せねばならず、空海と比べてしまえば、まことに気苦労の多い人であった。

しかし、最澄亡き後、教理の補填を弟子たちが大いに果たした。比叡山延暦寺は最盛期には3000坊ものお堂が叡山各所に立ち並んだと言う。そして、各宗派の開祖たちは皆、比叡山で学んでいる。法然もここから出た。話がそれたが行先の愛宕念仏寺にはこのふたりの聖僧の足跡は全っくと言っていいほどない。現代の愛宕念仏寺は違う要素から成り立っている。 

     

三。「あたご」と「おたぎ」

   

これはニコンのV1。古いカメラが好きなのよ。

街道はつづく。進むにつれ登山客が増えてきた。愛宕念仏寺は愛宕山あたごやまの麓に位置している。「おたぎ」と言ったり、「あたご」と言ったり忙しいが、山頂に「愛宕神社あたごじんじゃ」がある。標高は924m。だそうだ。登山道が参道になっており山登りの難易度としてはそれほどではなく、日帰りが可能で5時間ほどのコースになるという。

愛宕神社の参道は四方に伸びており、この辺にも入口があるらしかった。やがて「愛宕 一の鳥居」が見えてきた。一の鳥居を超えると街道らしさがなくなり、木々が濃くなりはじめる。この先に果たして愛宕念仏寺があるのか心配になってしまった。 

   

愛宕街道の蛸灯篭。

登山客に「愛宕念仏寺ってここから近いですか?」と尋ねたら「そこですよ」と指さし教えてくれた。なにも人に聞くほどの距離ではなく、もう目と鼻の先だったことにふたりで笑ってしまった。私たちに釣られて、その人も笑ってくれた。妻はほんとうによく笑う。それこそ鈴でも転がるようによく笑う。笑わないのは腹が減っている時ぐらいだ。腹が減ると途端に静かになる。本人いわく「省エネモード」だそうだ。

   

四。天皇陛下のバトンタッチ

   

京都の雪はすぐ溶ける。そう。熱いトタン屋根の上のアイスクリームみたいに。

だいたいどの寺もそうだが愛宕念仏寺も荒廃を繰り返している。最初の成り立ちは天平神護2年(766)だから1200年以上も前になる。当時ここにはなく、今とはまるで反対の方角の現在の東山区弓矢町の位置に建立された。

当時はその地を山城国愛宕郡おたぎごうりと言いそのまま愛宕寺と呼ばれていた。かつては六波羅蜜寺の塔頭寺院の一つであったという。寺は聖武天皇の娘の称徳天皇(孝謙天皇)によって建立された。この天皇は僧 道鏡を寵愛したことでも知られる。この時、危うく皇位をこの僧に譲ろうとした言うから周辺はただ事ではなかったことだろう。その後、醍醐天皇の時代に鴨川の洪水ですべて流され廃寺となる。

醍醐天皇は善政を布く。後世「延喜の治」として称えられる治世であった。ちなみに右大臣に菅原道真がいた。菅原道真は藤原氏の讒言により大宰府へ左遷されてしまうが、道真の祟りはこの名帝に注がれてしまった。

    

“思い出は熱いトタン屋根の上 アイスクリームみたいに溶けていった”ブルー・ハーツ

さて、愛宕寺の再興を命じたのはこの醍醐天皇だと言う。調べてみると(残念なほどに)そういう見解が多い。命じられたのは天台の僧 千観内供(918-984)この記事の主人公の一人だ。だが、醍醐天皇は清涼殿落雷事件を境にいよいよ体調を崩し、延長8年(930)に崩御している。

ここで疑問が残る。醍醐天皇が崩御した年から千観内供の生年を引くと12年しかない。つまり、千観は少年にして愛宕寺の再興を命じられたことになる。少年 千観内供に寺の再興が務まるのか。勅命でもって一寺の再興を少年に託すのは、いくら何でもドラマチックすぎる。

さて時代の天皇に目を向けてみよう。父 醍醐天皇の崩御に伴い、朱雀天皇が7歳で即位する。朱雀天皇の時代、関東では平将門が反乱。瀬戸内では藤原純友が乱を起こした。それに加え、富士山の噴火に洪水や地震も多く、まったく穏やかではない。朱雀天皇は病弱で、早世してしまった。

天皇が幼少であっても政治は取り巻きの貴族の仕事であろう。だが、愛宕寺の再興はさらに次の村上天皇のまで待たねばならなかったはずだ。村上天皇の御代は「天暦の治」と称され、一応のところ落ち着いていた。「たれぞ愛宕寺を再興させよ」と。この頃には千観内供は青年に達している。登場するならこのタイミングであってほしい。