祇王寺
常寂光寺
三千院
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清凉寺 ~千年仏と奝然と~

   

五台山 清凉寺 嵯峨釈迦堂

   

  

   

序「嵯峨野の始まり」

   

    

天龍寺の門前を左に折れゝば釈迦堂で右へ曲れば渡月橋である。京は所の名さへ美しい。

夏目漱石「虞美人草」1907年

  

夏目漱石の小説『虞美人草』にそう出てくる。漱石は京都が好きだった。今回はその「釈迦堂」を書く。釈迦堂とは清凉寺のことになる。書くことを思い立ったのに、たいそうな理由はない。白状すると清凉寺の駐車場が嵯峨野巡りに便利だった。その上、料金も終日800円と安い。なのでつい便利に使っていた。嵯峨野の二尊院や愛宕念仏寺などの名刹・古刹はすべて北側に集中している。それらに繋がる清滝・愛宕街道に出るには、清凉寺の境内を西へ突っ切るのが、すこぶる都合がよかった。

   

「これはいい駐車場を見つけた」。と夫婦そろって浮かれていた。けど、何度か通るうちになんとなく漂う清凉寺の静けさに気付いた。ここ嵯峨野は平安以来の貴族たちの別業の地であったし、嵯峨野を特に気に入っていた嵯峨天皇に関してはまだ親王の時代から山荘を営み、帝位を継いでから、この地に「嵯峨院」を造った。

皇族・貴族由来となればこの西郊のひなびたむらにも一種の緊張感をはらむ。そういう緊張感が妙な静けさに成りすましているのかどうかは分からない。にしても嵯峨野は嵐山のさざめきとも無縁でいつも静かだった。嵐山から歩いてわずか15分の距離にあるのに、嵐山はまるで関係ないように佇んでいる。この潔さもまた「清涼寺」の名にふさわしい。

   

この「静けさ」には嵯峨野を歩いていると時々、遭遇する。東山地域の人工でもって押し広げた寺社仏閣とは雰囲気は異なる。そういう意味でも愛宕山や小倉山に抱かれたここ嵯峨野には引き込まれるような魅力に富んでいる。

司馬遼太郎はこの地を“歴史的な嵯峨には田舎くささがない。平安初期から貴族たちがこの山麓に別所を営み、月雪花を賞でつづけた。いわば古今、新古今の美学でこの田園をみがきつづけた”としている。その嵯峨野の入り口に清凉寺がある。清凉寺の前身の寺は平安時代からあった。平安時代由来の古刹になる。「京都のお寺って、ぜんぶ平安時代からあるんじゃ…」って思ってくれたら、ちょっと嬉しい。さあ、今回も京都 奥嵯峨野「 清凉寺 」。歴史を紐解くことで…

   

新しい京都が見つかる。

    

   

ひとつ「泣くよ坊さん」

  

意外に思うかも知れないが、京都のお寺さんすべてが平安時代からあるわけではない。半分くらいは鎌倉か室町時代以降の建立の寺になる。平安時代からの寺となると、一番に思い浮かぶのは「東寺」だ。あの寺は空海創建以来、場所が変わっていない。その他の寺で平安時代から存在しているとなると、有名なところだと清水寺、延暦寺、仁和寺、醍醐寺、神護寺、平等院になる。そして、今回書く「清凉寺」も平安時代由来の寺となる。

平安時代について少し触れる。平安遷都で晴れて都になった京の町。平城京からの遷都の最大の理由は奈良仏教勢力からの脱却と言われている。私の頃は中学校で「泣くよ(794年)坊さん平安京」で覚えなさい。と教えられた。そして、大人になって、このブログを立ち上げて京都の歴史や中世の時代背景についてはずいぶん勉強させられた。それで分かったが実際は平安遷都で坊さんは泣いてなどいない。時折、京に上ってきては朝廷に嗷訴ごうそを繰り返し、しっかり脅威的存在として活躍している。

   

この嗷訴の主寺は興福寺、東大寺であった。これが「南都」と呼ばれる寺社勢力。翻って北にもこの勢力があった。延暦寺、園城寺からなる「北嶺」の寺社勢力。それぞれ連合を組んでいたわけではないが、利害の一致があれば共闘し、その反対であれば平気で争っていた。この二つの勢力を合わせて「南都北嶺」と言う。朝廷はこの寺社勢力それぞれから、しっかりおどかされ続け、遷都から数百年間、ようやく寺社勢の、その実力基盤が弱体化し始めるまで、ずっと泣かされてた。

この嗷訴ごうそとは朝廷に自分たちの要求を神仏の威を借りて行う強迫行為であって、僧兵の集団が神輿を担いで市街地を練り歩くものだった。主に公家や平氏などの有力貴族を狙って行われた。こういうデモ行進は市中で度々行われ、ある意味の京の名物になっていたが、清凉寺のある嵯峨野までにはなかなか及ばなかっただろう。前述のとおり嵯峨野は閑静な別荘地であった。神輿を担いだ僧兵が屋敷も疎らな田畑の中を主張を叫びながら練り歩いても、聴くのは昼寝中のむじなか蛙くらいなものだろう。

  

この時代以降、寺社は既得権益の堅持と新たな利権の確保に心血を注いでゆく。時代が下るにつれ、自衛意識はやがて武装集団としての色合いを強めていく。寺々は武具を集め、経済を掌握し、宗教都市を形成していた。紀伊の根来寺などは自ら鉄砲を生産までしていた。また、戦国時代にかけて比叡山延暦寺の繫栄は当時、明国から日本の首都に間違われるほどだった。

清凉寺は世の中が未だ混迷を迎える前の、貴族全盛の平安時代の中期頃、ある貴人の別荘として誕生する。別荘の主は嵯峨天皇の皇子でありながら臣下に降りた貴公子。源氏物語の主人公「光源氏」のモデルになった人物。源融みなもとのとおるだった。この頃、清凉寺はとおるの西郊の別荘に過ぎなかったが、融が死去したのち別荘の名を取り「棲霞寺」と呼ばれるようなった。この寺が清凉寺の前身となる。

   

ふたつ「市聖」

  

「清凉寺」としての登場はまだ先になる。京都の様子について少々、続ける。時代は源氏物語の世界から平家物語の世界へ移っていく。朝廷と武士と僧侶と民衆が、それぞれがより活動し、栄華を成し、あるいは没落していく混迷の時代。末法の世の始まりの時期でもあった。

西郊の嵯峨野と違い、東の四条や祇園界隈は騒然としている。前述した嗷訴も時折ある。この辺りには馬借に河原者かわらもの白拍子しらびょうし神人じにんと呼ばれる人々が暮らしていた。詳しいことはいったん置いて説明すると商人や職人、芸能に携わる人々がある者は買い、ある者は売って、所狭しと生活していた。流行っていた歌謡は田楽か、あるいは今様であったろうか。ちなみに後白河法皇は今様にずいぶんのめり込んでいた。

  

そういう中に念仏して歩く僧(のような者)もいた。念仏聖だ。念仏の先駆者は空也とされている。口から6体の小さな阿弥陀仏が出ている像なら知っている人も多いと思う。6体の小さな阿弥陀仏はそれぞれ「南・無・阿・弥・陀・仏」を表している。鐘(鉢)を胸に下げて、鹿の角のついた杖を持っている。あの像の人が空也上人で、「市聖」あるいは「市上人」と呼ばれた。

    

“市”聖、“市”上人と呼ばれている事からも、市井の人々を対象にして仏教を広めた。この頃の仏教は公家など上流階級のいわば「持ち物」であり、文化的遊戯の側面もあった。空也はこの上流階級の嗜好を民衆に「口称念仏」という形で広めた第一人者だった。

空也に始まった口称念仏は時宗の一遍や一向宗に伝播し、やがて「踊り念仏」へと成ってゆく。踊念仏は盆踊りの原型になった。田楽や猿楽にも影響し、やがて能や狂言に派生したことは想像に難くない。清凉寺の年中行事に「嵯峨野大念仏狂言」がある。これもまた、この時期に起源を持つ。そして、勘のいい方はお気づきかも知れないが、踊念仏は後に出雲阿国に影響を与え、歌舞伎踊りのルーツにもなったと言われる。

   

みっつ「入宋僧 奝然」

   

ここに、空也とほぼ同年代の奝然ちょうねんという僧がいた。奝然は東大寺からでた。この時代の名僧のほとんどが叡山から出ている観がある。が、奝然が一人、俄かに南都 東大寺から現れた。東大寺に学んだ奝然は言う。「南都では経典の最上最下を論ずるばかりで、各々の名利に腐心し、権力闘争に明け暮れている」。「我々は東大寺で研鑽をつみ、石山寺でも元杲師について真言を学んだ。高野の大師への信心の篤さはどうか。南都とは比ぶべくもない」。また、「叡山の勢威を見よ。今の叡山があるのは伝教大師が唐土に渡り、正しく仏の教えを持って帰ってきたからではないか」と。

   

奝然は泰然としていた。しかし、黒目の多い瞳に義憤の光が満ちる。奝然は「義蔵よ。いかに」と意見を求めた。義蔵は思った。「目に興奮の気色、耳の先からほのかに気が上っている」。義蔵はこういう奝然が嫌いではなかった。冷静さを保ちつつ、彼は彼で頬がわずかに上気し、赤みをおびていた。公然と東大寺を批判する奝然は続ける。そして、次の言葉に度肝を抜かれた。

「ここ嵯峨の北、愛宕山に一大伽藍を創建し、叡山を凌駕しうる仏教革新の本山とする。これこそわしの本願である」。この義蔵と奝然は10以上の歳が離れている。師弟という間柄でもなく、ふたりは世尊を父とし、経法を母とする法兄弟として、志をともにしている同志であった。義蔵は後に奝然の入宋にも同行している。調べ進むうちに、この二人の間に友愛というだけでは足りない「情愛」のようなものを感じた。二僧の決意を交わした結縁状にも、それぞれの手形を添えるあたりなどは手形でありながら、まるでお互いの手の固く握り合っているような、そういう生々しさすら感じる。

  

この「生々しさ」の正体とは要は衆道の道の事であるけれど、殊に精神的なものだったのか、あるいは肉体を介在させた生々しい秘事だったかは分からない。でありながら、当時の宗教的倫理に照らして特に珍しいことではなかった。とは言え、書く人間側からすると彼らが出家し、親兄弟も世間も捨て、まして身から湧き出る根源的な欲望とはとことん別離するはずの宗教家である点は、実に困る。これに昭和の文豪 佐藤春夫(1892-1964)も著書『釈迦堂物語』で言及している。以下はその抜粋になる。

   

わたくしは奝然と義蔵とこの十二歳違ひの法兄弟の誓紙のなかにも何か衆道的なものがありはしなかつたかといふ埒もない想像が呼び起こされた。

佐藤春夫「釈迦堂物語」1956年

   

佐藤春夫先生も手を焼かれたようだ。「これはちょっと書きにくくなった」と。その後の気分の転換に苦労したのは書き味からみて取れる。さて、私は素人なので先生の苦労に敬意を払いつつ、奝然については話を先に進めてしまおう。歴史を相手にすると千年前の倫理観を現代の感覚と突き合わせてしまって、悩んでしまう。先入観というものに盛大に振り回されるのだけど、この奝然という一個の人間には現代の価値観に照らし合わせても美点というか、人間的魅力に長けているところがあった。

それは家族を捨てて出家した者としては整合性のとれない事実になるのだけれど、彼は家族を親兄弟をことのほか大事した。同輩の義蔵や弟子の盛算らからも随分慕われていた形跡がある。人情に篤かった。というより彼の場合は「同族意識」といった方がしっくりくる。これには彼の生まれが起因している。

  

よっつ「秦氏 奝然」

 

奝然は京都の西北一帯を開発した「秦氏」の一族であったという。秦氏は渡来の一族で土木・養蚕・機織りなど当時の先進技術の保持集団であった。その技術力は極めて高度で西日本を中心に鉱山開発、灌漑、土木事業など多くの足跡が確認できる。その支配下の民は膨大で日本各地に分布している。「支配下」というよりは同族間の厖大な情報網と言ったほうがいいかも知れない。無論、平安京の造営にも関わっている。

自然、政治に深く介入していそうだが、この一族の政治権力への接近はそれほどではない。その時々の政治権力に手を貸すことがあっても直接、姿を現すことはない。歴史上、人物として登場することすら稀で、せいぜい登場したのは聖徳太子に影響を与えたと言われる「秦河勝」くらいではなかろうか。それも秦氏の族長的・ ・ ・人物としてだ。個人色が薄い組織と言える。

  

古代日本に色濃い影響を与えながら時の権力と癒着する事もなければ命運をともにする事もない。かといって史上、派手に登場するでもなく、隠然と歴史下に身を潜めている。氏族本体の所在が不明瞭で、謎めいた技術者集団と言っていい。

奝然は謎深い秦氏からでた。彼の頃、秦氏の支配基盤は依然として盤石であったが、政治的には斜陽の感があったらしい。この時期に奝然は「あの山には叡山に対抗しうるすべてが揃っているではないか」。「大寺建立の暁には他山もおよばぬ程の仏都にしてみせよう」。

彼が秦氏の出である事実は一見して退屈とも思える奝然の誠心さに、ひとつの彩りを与える。「この奝然が大事を成し遂げ、我が一族の繁栄の礎とならん」。一途な懸命さには、こういった事情が彼の陰影として濃くあったかも知れない。

 

奝然坊の話は続くが、彼は朝廷に上奏し、入宋の勅許が下りるまで10年待った。当然ながらその間も政治活動続く。待ったというよりは10年かけた根回しの成果であった。晴れて983年、入宋の願いを果たされた。入宋にあたっては多くのみやげものを用意し、準備は万端であったし、目指す宋の地も五代十国の戦乱期が終わり、ようやく国体として落ち着き始めた平和なときだった。

まさに順風満帆の船出。入宋後はさらに順調であった。奝然は大宋皇帝に謁見したばかりか、大師号も賜り、なお大宋の保護の下に天台山、五臺山の聖地を巡り、密教始祖の真身を拝し、且つ最新の密教の伝授を受ける好機会に恵まれた。そればかりか恩寵によって新版大蔵経五千四十八巻、四百八十一函などを無事、日本に請来したのだ。

宋国では少しばかり行き違いはあったものの、奝然一行の大望は完璧な形で成就された。本国に帰還後、朝廷は奝然らの請来した品々の目録に目を丸くしただろう。ゆえに入洛時の朱雀大路は多くの人々が観衆となって集まった。その成功も彼らにとっては愛宕山に大伽藍を創建し、一大仏都とする大願の布石でしかたなかった。しかも、彼の構想はこの経験によって入念な輪郭を得ていた。

「愛宕山をもって、大宋国五臺山とし、伽藍を立てて“大清涼寺”と号す」

  

いつつ「名もなき法然」

  

結局、奝然は東大寺の別当になり、そして、没した。当時、僧であっても当然だった露骨すぎる野心を叶えられぬまま死んだ。奝然の遺志は入宋を供にした高弟の盛算に受け継がれることとなる。亡き師のをこの盛算じょうさんはよく繫いだ。奝然の「大清凉寺構想」は実現できなかったが、盛算は勅許を得て、小さいながらも一寺を得る。

  

場所は最初に書いた棲霞寺の境内の一宇であった。そこに奝然らが宋から持ち帰った”生身の釈迦像“を本尊とすることで寺は始まった。かつて釈尊の弟子であった優塡王うでんのう(もしくは于闐。古代インド、コーシャンビーの国王)が釈迦の不在を慰めるために自ら刻した瑞像。それを釈尊にご覧にいれたところ「似ている」と仰ったそうな。これが”生身の“と言われる由縁だった。

奝然は宋からの帰国の間際、この瑞像を模刻させていた。完成した瑞像の胎内には様々な品が納入された。絹で作られた釈尊の五臓も入れられたし、奝然と義蔵の結縁状も入っていた。帰国直後からこの栴檀の香木で作れらた釈迦像は人気を集めた。民衆は奈良や叡山の坊主どもに厭きていたのだろう。当時、仏教に釈迦回帰が起こっていた。人々は「本物の釈迦」に焦がれていた。

  

「生身の釈迦像をひと目見たい」

時は末法の世の始まり。都は荒廃を迎えて久しい。飢饉、戦、災害などは日常に蔓延っていた。人々は清凉寺に集まった。集まって釈迦像の前のぬかずき、たさひたすらに祈るの民衆。ふと民衆の中にひとり若い僧侶が混じっている。

名は源信。のちの法然であった。この青年の目に映る都は美しいものとはほど遠い。通りは糞尿がこぼち、死臭すら漂う。路地には浮浪者が虫の息で半ば寝転がっている。彼は叡山に学んだ。だが、民衆を顧みることのない叡山の在り方に疑問が生じた。その疑問はつまるところ自身の在り方にまで及んだ。果たして自分はこのままでよいのか。煩悶の日々に彼は叡山を背に嵯峨野を目指す。彼にはある目的があった。

「嵯清凉寺には釈尊をよく模した瑞像があると言うではないか」

   

ななつ「嵯峨の釈迦堂」

  

当時、まだ棲霞寺の一堂に過ぎなかった清涼寺には法然が24歳の時に参篭に来た。と寺伝にある。法然が数々の法難の末、浄土宗の法灯を掲げるのは43歳のことだった。先に触れたが、この時すでに都は荒廃し、清凉寺には多くの民衆が集まっていた。「坊主どもなんざおれ達を救っちゃくれない。けど、お釈迦様なら何とかしてくれる」。という訳だ。

それほどまでに寺社勢力の救世救済の精神は不信に陥っていた。あまねく衆生を浄土に導くはずの大乗の教えは果たして機能しているのか。否、世は末法。目の前に人々は今まさに困窮し、救いを失い、額を地につけ、嘆き祈るばかり。「誰かが何とかしなければいけない。それが誰であっても、正しく導くのは…」若き法然の逡巡に栴檀の香木で彫られた”生身の釈迦像“はどんな風に応えたのだろうか。

  

奝然の持ち帰った瑞像に

この寺には奝然の持ち帰った「生身の釈迦像」が安置されている。古くは嵯峨天皇の御所の一郭から、源融が一堂を建立し、像奝然らが宋に渡った。その弟子盛算が教えをよくつなぎ留めて、清凉寺が始まった。そこに法然が参籠し、聖心を得た。今はあなたが見るかも知れない。

   

七つ目.

執筆中